痙攣◎帰者:der ◎ Wiederkehrende 

小説を書かない小説家のケーレン的旋回シコウ

op-1

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pus-01: So., 26. Jun. 2022







i小説を書こうとしていた
iのだが 始めて早々に筆

iが止まってしまい どう
iにも先へ進めなくなった
i/原因は全く不明  
iいうことにしておく




i✽ 言うまでもないことだが  いや、
i言うまでもないことだから言わない。

 

 本頁の内容につきましては、
まれに、閲覧者の皆様によ
るあらゆる好意的な解釈の
御努力がことごとく徒労に
終わる場合がございます。

 

異状を覚えたときは直ちに
服用を中止し、掛かり付け
の医師に御相談下さい。 

 

§ だから代わりに、という訳でもないが、いましがた脳裡を通過していった、書こうとしていた筈の小説とは無関係な幾つかの考えを、忘れないうちにここに書き留めることにする。——但しそれはけして、どうしても記録しておく必要があるような考えだった訳ではない。逆だ。——私はそもそも、必要なことを考える人間ではない。自慢でもなんでもないが〈必要〉という観念が嫌いで、殆ど本能的に、自分にとって、また社会、人間にとって必要なことは考えないようになっている。それもあって(あくまで理由の一つにすぎないが)今はこんな暮らしをしている。どんな暮らしかは説明しない。‥‥。

§ 本当にまったくどうでもいいことだが、私は無言の点々?(正式な名称が分からない。これ ‥‥ のこと)は基本的に、前の段落の最後でそうしたように四つ打つことにしている。谷崎潤一郎『細雪』の、中央公論社発行の或る旧い版——たいした意味は無い。たまたま手許にあった舊字舊假名(旧字旧仮名)の本——例えば、現代なら

  汽車に乗ってからもまだ続いていた。〔 2行アキ 〕(おわり)

となるところを

  汽車に乘つてからもまだ續いてゐた。〔  同前  〕(をはり)

としてゐるやうな古本であると云ふ丈だ——この版では点々が必ず四つになっており、非常に珍しいケースではないかと思う(或いは、昔はこの方が多かったのか?)。

  「お母ちやん、‥‥」

  ‥‥まあ、自分で何とかやつて行けるうちは、‥‥と、思ひ思ひ

  いつまでゞも相手になつたりして、‥‥

  ちよつと申上げたいお話もございまして、‥‥と、さう云ふので

といった調子で(上の点々は原文のものである。文章の途中であることを示すための引用の直前、直後の “〔‥‥〕” は、ややこしくなるので省いた)、この本(この本のこの版)で頻出する点々は必ず四つになっている(この小説では二倍ダーシ〔ダッシュ〕= “——” を多様しているのも目立ち、他人とは思えない)。これらは殆どが「 」で括られた科白の中に登場する。
 私は、無言の点々は四つが気に入っている。よくあるように三つでも、六つでも駄目だ。——ただし、これは単純に数の問題ではなく、一つ一つの点の大きさ、ないしは点が占めるスペースの問題でもある。私はあの点々は、伏字、すなわち ✕✕✕ ‥‥ と同じように、一つの点が一つの文字を指そうとしているのだと、勝手に思っている——伏字表現を行なうときに誰もがそういうつもりでやっているかどうは分からない。
 英語の four-letter word というのは、幾つかの口にすべきでない(伏せるべき)卑猥な言葉、下品な言葉がたまたまアルファベットで四文字であることに注目しつつ(そのまま口にできないいじょう)遠回しに指しているのであって、もしもこれを日本式に伏字で表現するなら当然、 四つということになる。——ただ、欧米人にとっては、 はバツや罰ではなく、“駄目” を意味しない。 には悪い意味は無く、彼、彼女らにとってそれは大抵、 とまったく同様にニュートラルなチェック・マークとして機能する。恋人に宛てた手紙の最後に を二つ三つ描けばキス・マークになり、これは通常のチェック・マークのようにニュートラルではないが、もちろん悪い意味を持つ訳ではない。言うまでもないことだが、 “あんたなんか嫌い!” という意味ではない。‥‥で、なんの話だったっけか? ‥‥
 何かを言おうとしたがそれができずに黙ってしまい、そこから束の間、沈黙の時間が流れる。“‥‥” は、ひとつにはその沈黙の時間を表わすために遣われる。なにも喋っていないのならなにも書かなくてよい、ということにはならないのだ。なにも書かずにおくと、発話が停滞したまま時間が経過している様子が伝わらない。無言の点々は、紡ぎ出されようとしてそうならなかった不運な言葉の墓碑銘なのである。
 そうなると、私が言う《無言の点々》にもっとも相応しいのは、幾つかの全角の中黒丸(・・・)だということにもなりかねないが、これだと間延びした見た目になるし、必要以上に強い主張に感じられてしまう。そこで、ワープロ用の文字コードを割り当てられた記号の中から中黒丸に代わるものを探した結果が “ ‥‥ ” だったのである。一般的な三点セット記号 (…)を一発、または二連打(……)という書き方は、欧文だとしっくりくるのかも知れない(同じフォントサイズだと大抵、和文の一文字よりもアルファベット一文字の方が巾が狭いのだから)。因みに、むろんこれもまったくどうでもいいことだが、角川文庫の『細雪』(これもたまたま持っていただけだ。深い意味は無い)では《三点セット》三連打、点が3×3で九つも打たれていて(………)、これはもう私には明らかに多すぎる(細かすぎる)——どうでもいいことだが。中味を書いた谷崎先生もきっと、點の數などほんたうにどうでもいいことだ、と(生きておられれば)仰るに違いない。だからこれはどうでもいいことだ。実のある小説を書くために、こんなことに拘泥する必要は全然ない。

§ 角川文庫で思い出した。——以前、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を角川文庫(上・下二巻)で読んでいて、非道く吃驚したことがあった。この作品はそもそも非道く吃驚する内容のものなのだが(“昭和の奇書” の一つとされている)、いま思い出したのは、この小説のとんでもない内容に関することでは(おそらく)ない。これの下巻の或る箇所の或る記述がなんとも物凄いのである(繰り返すが、問題にしたいのは内容の物凄さではない——たしかにこの箇所も、内容も物凄いけれども)。私の手許にある『ドグラ・マグラ(下)』は、平成十九年の第61版である(昭和五十一年にこれの初版を出した角川文庫だけで、しかも十数年前の時点で、61という版数を稼いでいる。昭和十年の発表以来、種々の版において九十年近く売れ続けてきている大ベストセラーだ)。
 この角川文庫の235頁10行目のちょうど行頭から始まる一文を引用するので、太字で強調した部分をよく見てほしい(勝手に太字にさせてもらったが、それ以外は原文に忠実に書き写したつもりだ)。

この上はその美しい愛人を、極度に残忍な方法で虐待するかどうかしなければ、この上の感激は求められられられられないといった程度にまで高潮した欲求を、夜ごと日ごとに感じ始めて来た。

 この一文は、登場人物の一人、《正木博士》が《私》を相手に語る長い科白(235頁2行目~同頁最終18行目)の真ん中辺りに現われる。この《正木博士》というのは、とてもではないが普通の、まともな人間であるなどとは言えないキャラクターだから、どんな無茶苦茶なことを口にしてもおかしくはない。ただし、それは発言の内容の話だ。『ドグラ・マグラ』というこの作品がどれほど異様な内容を湛えているとしても、そのことから、“られ” が立て続けに四度繰り返されるということが必然的に出てくる訳ではない(この作品には、例えば正木博士は興奮すると吃音になるというような設定は埋め込まれていない——筈だ)。引用文中では「この上」という表現が二度用いられており(最初の「この上」は、“こうなったらもう” といった意味で、二度目のは “これを上回る” というような意味)、この箇所を書いているとき夢野は、言葉の繰り返しによって或る種のノリを産み出そうと意図していたのかも知れないが、「られられられられ」がそうした目的に適っているとも思えない。これを見た者はただただ驚いて驚いて、戸惑う戸惑う戸惑うしかないないないない——ばあ。‥‥。
 誤解の無いように言割っておくが、これは誤植ではない。つまり、角川書店がいい加減な本の作り方をしたからこうなった訳ではないのだ。——かつて知人にこのられ ✕4の話をしたところ、有り難いことに『ドグラ・マグラ』の他の諸版に当たって、問題の箇所がどうなっているかを調べてくれた。その結果判ったのは、(期待に反して)られが一回だけになっている版は無い、ということだった。テクスト・クリティークに最も信頼がおけると考えられる版においても、長谷川町子『サザエさん』のフキダシの中に頻繁に登場していたあの、平仮名の “く” を縦に引き伸ばしたような記号によって、られは繰り返されていたのである。つまり、著者=夢野久作本人が執筆に際して、何故か当該箇所でられを不必要に繰り返した可能性が高い——いや、まぁ、なんというか、この主著の執筆に十年を費やした偉大なる夢野久作である、不必要などとは不遜きわまりない、‥‥が、しかし、とにかく、その可能性を考えてみたくなる私を赦してほしい。私は不必要は好きだ。
 著者本人は、繰り返しは一度、すなわち、られは二回(「求められられ」)で止めるつもりであった(最初のられは《受動》、二回目のそれは《可能》で、“求めるという行為の対象となることができ〔ない〕” といった内容のことを言うつもりだった?)にも拘わらず、つい筆が辷ってられが四回になってしまった(一つだけ書けばよかった筈の繰り返し記号を立て続けに三つ書いてしまった)——ということなのだろうか? ——解釈として非常に苦しい! ‥‥それともやはり、夢野はけして書き損じた訳ではなかったが、ただ、彼と植字工ないし校正者との間で、夢野が書いた記号(縦長の)の扱いに関してズレがあった(具体的にどういうズレであったか、上手く想像することはできないが、夢野が一度だけ繰り返すつもりで書いた何らかの記号を、植字工ないし校正者が三度の繰り返しと受け取ってしまった)のか?
 ‥‥夢野は繰り返しをまったく意図していなかったという方向でのアプローチとして、次のようなのはどうか(ただしこれもかなり現実味が無い)——夢野は、「求められ」と書いたところで続きをどうしたらいいのか迷い、「う~ん」とかなんとかと唸りながら、原稿にジグザグの線を引いた、そして、それをうっかりそのまま完成原稿として校正に送ってしまった。‥‥やっぱりこりゃ駄目だ。無ぅ茶苦茶でござりまする(ところで、ひょっとして夢野久作は、比喩ではなしに本当に筆を走らせていた——ペンや鉛筆で原稿を書いていたのではなく——のだろうか? 若い頃〔渋沢栄一に匹敵するほどの超大物だった〕父親のコネで、新聞社でライターをやっていたというから、筆ということはないだろうけれど)。
 ‥‥『ドグラ・マグラ』をいま一度よぉく読み返せば、正木博士が吃音になることが納得できるような記述が見付かるのだろうか? そうかも知れないし、そうなればそれがいちばんいいのだが‥‥。いずれにせよ、四つの “られ” は謎のままである。

 ‥‥始めのほうで書いたように私という人間は、必要なことは考えないように出来ている。大切なこと、大事なこと、と言ってもいいが、とにかくそういうことは考えない。というか、考えられない。頭がさう云ふふうに出來てゐない。だから、ここに延々と書いていることの中にも、なにかのために必要なことは一つも含まれていない筈だ。ここに私が書いたこと、将来的に書いてゆくだろうことは、簡単に言って、なんの役にも立たない。また、故に下らない。——もちろん、必要だとか大切だとか役に立つとかは、人それぞれだ。だから、いま言ったのとは真反対に、私がここに極めて重大な事柄ばかりを書いていると感じ、私のことを、イエスや聖徳太子やアインシュタインやガンジーやヘレン・ケラーのような偉人、賢者だと崇める人も、広い世間には一人や二人、居ないともかぎらない(世間というのはとにかく広いのだ)。しかしそういう人(映画【タクシードライバー】に登場する、デコトラじみたビカビカの電飾を施したクロゼットの中の神殿に自分だけの神を祀っている男のような?)に対して私自身としては、その理解は絶対に間違っていて、とんでもない錯覚だと言うしかないのだけれども、どうか落胆しないでほしい。それからついでに言うと、もう充分にお分かりのこととは思うが、私の書き連ねることには脈絡が無い。‥‥‥‥
 点がちょっと多かったが赦してほしい。九つではなく八つで、これはこれなりに私にとってはそれなりの意味があってやっている。トコトンどうでもいいことだが。
 因みに、と言いながら何がどうチナんでいるのか自分でもよく分からないが、『ドグラ・マグラ』は「蜜蜂の唸るような音」から始まる——下に角川文庫から引用する(強烈な「巻頭歌」の後、頁を改めての本文第1行目)。

  …………ブウウ——————ンンン——————ンンンン
  ………………。


(引用に際して改行したが)この1行をもって物語は幕を開ける。私の手許にある角川文庫では、最初の点々は12箇(全角4字分)、後のは18箇(全角6字分)、ダッシュは二つとも全角6字分になっている。こうした箇数や長さを著者が厳密を期しつつ指定したかどうかは分からないが、とにかく、如何にも『ドグラ・マグラ』、如何にも夢野久作ではないか。

§ 閑話休題(今更なにを思い出したように⁈)。
 さっき私の頭を通り過ぎていったのは、《数学》というものについての或る(もちろん下らない)考えだった。
 私は数学が苦手で、小学校で教わった算数よりも高度な内容のものは、どれもこれもきちんと理解できない。——こう書くと、“算数” はかろうじて得意だったと言っているように聞こえるかも知れないが、そうではない。とにかくずっと成績は悪かった。
 出来ないし解らないのであるいじょう、私は数学が大嫌いだ、となる筈だが、じつはそうではない。どうしてか。——高度になればなるほど数学は、たちまちの役には立たないから、つまり、現実の生活や、ましてや人生にとって必要ではないからだ。ものの本によれば、クレジット・カード決済などに際しては、個人情報のハッキングを防ぐ暗号システムが機能していることが絶対的に必要で、このシステムの構築には比較的高度な(特に《素数》という特殊な数に関連した)数学が応用されている。現代の現実の生活にとって高等数学は必要不可欠だという訳で、実際そのとおりなのだが、私はこういう実際的な話にはほとんど関心が無い。
 現実生活への応用ということから離れた、例えば《素数》の数学的な性質の解明といったものは面白いと思う。いかにも純粋に学問的で、さしあたり何の役にも立ちそうにないからだ。数学関係の一般向けの教養書は、数学というものが如何に我々の現実の生活に役立っているか、如何に現実生活に必要なのか、実例を示して読者の気を引こうとするが——これがインチキだというのではなく、実際に数学は大いに現実生活の役に立っているのであるが——こうした工夫は私は気に入らない。私にとっては余計なものだし、必要ない。
  “ちょっと待て。お前、いま、教養書の著者の工夫を必要ないってコケにしたな? だがお前——まさに他ならぬ、必要のないものを悦ぶお前こそは、教養書のそういう工夫を『気に入らない』なんて言っちゃいけないんじゃないか?” ——なんて言っちゃいけない。それは詭弁というものだ。
 詭弁というのは、詭弁であることが見破られてしまうと、相手を騙せないという意味で、役に立たないものへと成り下がる。で、役に立たないものが私は好きだ、ということからすると、私は見え透いた詭弁というのが好きだ、ということになりそうだ。で、そうすると、私が人の意見を “詭弁” だと言って非難するのは、‥‥おかしいのかしら? ——いやいや、あんまり見え透いていすぎると詭弁は面白くない。そこそこに手の込んだ、ちゃんと人を騙せる、つまり或る程度役に立つ詭弁の方が‥‥
 ‥‥何の話をしているのか分からなくなってきた、遺憾遺憾。いま書かなきゃいけないのは、えーと、‥‥とにかく私は、いま、ここに書く必要のあることだけを‥‥必要? 私は〈必要〉は嫌いなのではなかったかしら? ‥‥駄目だ駄目だ。こんな余計なことばかり考えていると、「さっき頭を通り過ぎていった」考えをすっかり忘れてしまう。——いやいや! こういう悩み方は遺憾。私らしくない——さっき(といっても、もう随分以前のことのような気もするが)私の頭を通り過ぎていったあれはそもそも、憶えておく必要など全然ない、どうでもいいことだったのだから。気楽に構えてゆこう。気楽に構えて、いま頭に残っていることだけをじっくり——あぁいやいや、こんな暇潰しに寸暇を惜しんで没頭していると、いつまで経っても小説が書けない。肝心なのはなんといっても、‥‥肝心? ‥‥

 疲れたから已める。
次回は数学の本質について——って、俺がそんなワケないだろ。
  

pus-01:

§ 小説を書かない小説家が書いた

memo: 7/6/ 22
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◎コントロール
幼児は、自分の身体を様々に動かして、それの操り方を習得してゆく。上手くいったとき、また、思いも懸けぬ成果が上がったときには悦びを覚え、その快感が、自身をコントロールする訓練を更に続けてゆくための励みになる。/アリストテレスによれば(先日NHK【100分で名著】で紹介していた)人間は己れの持てる能力を存分に発揮できたときが幸福である。/自分自身の身体ではなく、他人の身体、また他人の心をコントロールすることにも、人間は言い知れぬ悦びを覚える(山崎務演じるインチキ新興宗教黒幕〔映画【マルサの女】〕のそういう印象的な科白があった)。残酷、残忍な悦びだ。余りにもこうした悦びに惑溺すると犯罪に結び付くが、この犯罪の取り締まりが厳格すぎると、政治家たちが全員監獄行きになってしまう。/アリストテレスの幸福論は、人間に共通で、かつ他の動物には無い(と彼は考えていた筈だ)理性=考える能力の発揮こそが(人間にとっての)最上の幸福だと教える。つまり、理性を充分に働かせて様々な物事を観察し、考察し、評価する《観想的生活》を送ることが最も幸福な人生なのである。/けれども、生まれつき、或いは後天的に何かの事情によって、アリストテレスが思い描いていたような程度には観想的生活を送ることができない人間たちも存在する。こうした人々は場合によっては、彼、彼女らを介護する側の人間たちからコントロールされること、すなわちほとんど一方的な制御、操作の対象となることが社会的に是認される。この種の介護においては、コントロールする側には悦びではなく、深い悲しみと痛み——罪悪感が伴わざるを得ない。相手が周りに迷惑な行動を執らないよう嘘を言って宥めすかしたり、薬を呑ませて精神、肉体の両面で鈍麻させ、不活性化させたりする。‥‥コントロールされる彼、彼女の幸福とは‥‥?   



◎暑い夏
       いやな夏が 夏が走る
       あつい夏が 夏が走る


——井上陽水の初期作の一つ、[かんかん照り]の歌詞。陽水の歌には夏の情景(祭、ホタル狩り、花火、夕立、溶ける石鹸、‥‥)を描いたものが幾つもある(ずばり[夕立]という歌があるが、描かれているのは、とてもすぐにやみそうには思えない猛烈なそれで、夕立というよりは豪雨だ。——「家にいて黙っているんだ 夏が終わるまで」!)。そもそも、暑い夏の日常生活のひとコマというような、季節の情景、光景(ほとんどそれだけ)を主題にした歌を歌うポピュラー歌手(童謡歌手ではなく)というのがなかなかいないのではないか。/今年は夏(しかもとびきり暑いそれ)が異様に早くやってきた。今日などは台風が接近中ということで、なんだかもう夏も終わって秋がやって来でもしたかのような気持ちにさせられる。/夏の暑さは厭だ。敵わない。「夏が走る」——日本語でこう言えば(当然歌詞全体の文脈があってのことだが)「夏」というものがなにか圧倒的な力をもって世界を支配しているかのようなイメージが喚起される。それに、おそらくこの「走る」は、英語の run から発想されたのだろう。コンピューターもそうだが、機械、装置が稼働する、作動するのを run と言うし、芝居、興行が不人気でポシャッたりせずに続くのを、やはり run と言うからだ(「ロング・ラン」というように)。「いやな夏」「あつい夏」が run するのだ。‥‥やっぱり陽水は凄い。初期(この歌はセカンド・アルバム所収)から天才的な作詞家だったのだ。/[暑い夜]というタイトルの曲もあり、如何にも陽水という歌詞で大好きなのだが、意外なことに、大傑作アルバム【white】所収のこの曲の作詞は、陽水本人ではなく 白石ありす という人。この白石さんに感謝を惜しむべきでないのは勿論なのだが、なにか残念なような気持ちにもなってしまう。/真夏には夏を呪い、いっそ真冬になってくれ!と叫び、その真冬になれば、ドテラの襟をかき寄せガタガタ震えながら真夏の太陽を恋しがる。/駄菓子菓子、自分は近頃とくに、夏は厭な夏であってくれ、冬はしっかり厭な冬であってくれ、と願う。自分の(人)生を終わりからこちらへ向かって眺めるようになってきたからだ。/自分の(人)生は一度限りだと思っている(ちゃんとした証拠がある訳でもないが)。自分は明快な四季の区別のある国に生まれ育ったから、春は春らしく、夏は夏らしく、‥‥そういうふうでないと、なにかもったいない気がするのだ。暑さにどっと汗をかき、ヘトヘトになって家へ帰り着くなり冷蔵庫のビールで喉を潤してひと言、「ああ! 生きた心地!」。けれどもその前にまず、夏が夏らしく、きちんと暑いのでなければ生きた心地がしない、それが近頃の自分という奴なのだった。/多くの人にとって、陽水の夏の歌と言えばなんといっても、「私の心は夏模様」と歌う[少年時代]だろうが、‥‥あぁ遺憾、これは長くなりそうだ。‥‥いつか井上陽水論に挑戦しなくては。┫