痙攣◎帰者:der ◎ Wiederkehrende 

小説を書かない小説家のケーレン的旋回シコウ

mobop-1

mobop-1

御注意 ※ 

 本頁の内容につきましては、
まれに、閲覧者の皆様の側
でのあらゆる好意的解釈の
御努力がことごとく徒労に
 終わる場合がございます。 

異状を覚えたときは直ちに
服用を中止し、掛かり付け
の医師に御相談下さい。 



pus-0126(日)’22


  小説を書こうとしていた
  のだが 始めて早々に筆

  が止まってしまい どう
  にも先へ進めなくなった
  /原因は全く不明——と
  いうことにしておく

 
       ✽言うまでもないことだが、‥‥いや、
       言うまでもないことだからやっぱり
       言わない。

 

 

§ だから代わりに、という訳でもないが、いましがた脳裡を通過していった、書こうとしていた筈の小説とは無関係な幾つかの考えを、忘れないうちにここに書き留めることにする。――但しそれはけして、どうしても記録しておく必要があるような考えだった訳ではない。逆だ。――私はそもそも、必要なことを考える人間ではない。自慢でもなんでもないが〈必要〉という観念が嫌いで、殆ど本能的に、自分にとって、また社会、人間にとって必要なことは考えないようになっている。それもあって(あくまで理由の一つにすぎないが)今はこんな暮らしをしている。どんな暮らしかは説明しない。‥‥。

§ 本当にまったくどうでもいいことだが、私は無言の点々?(正式な名称が分からない。これ ⇨ ‥‥ のこと)は、前の段落の最後でそうしたように、四つ打つことにしている。谷崎潤一郎『細雪』の、中央公論社発行の或る旧い版――たいした意味は無い。たまたま手許にあった舊字舊假名(旧字旧仮名)の本――例えば、現代なら

  汽車に乗ってからもまだ続いていた。
  〔2行アキ〕(おわり)

と書くところを

  汽車に乘つてからもまだ續いてゐた。
  〔 同前 〕(をはり)

としてゐるやうな古本であると云ふ丈だ――この版では点々が必ず四つになっており、非常に珍しいケースではないかと思う(或いは、昔はこの方が多かったのか?)。

  「お母ちやん、‥‥」

  まあ、自分で何とかやつて行けるう
  ちは、‥‥と、思ひ思ひ

  いつまでゞも相手になつたりして、
   ‥‥

  ちよつと申上げたいお話もございま
  して、‥‥と、さう云ふので

といった調子で(上の点々は原文のものである。文章の途中であることを示すための引用の直前、直後の “〔‥‥〕” は、ややこしくなるので省いた)、この本(この本のこの版)で頻出する点々は必ず四つになっている(この小説では二倍ダーシ〔ダッシュ〕= “——” を多様しているのも目立ち、他人とは思えない)。これらは殆どが「 」で括られた科白の中に登場する。
 私は、無言の点々は四つが気に入っている。よくあるように三つでも、六つでも駄目だ。――ただし、これは単純に数の問題ではなく、一つ一つの点の大きさ、ないしは点が占めるスペースの問題でもある。私はあの点々は、伏字、すなわち ✖✖✖‥‥ と同じように、一つの点が一つの文字を指そうとしているのだと、勝手に思っている――伏字表現を行なうときに誰もがそういうつもりでやっているかどうは分からないけれども。
 英語の four-letter word というのは、幾つかの口にすべきでない(伏せるべき)ヒワイな言葉、下品な言葉が、どれもたまたまアルファベットで四文字だったから、それを(口にできないいじょう)遠回しに指しているのであって、もしもこれを日本式に伏字で表現するなら当然、✖ 四つということになる。――ただ、欧米人にとっては、✖ はバツでも罰でもなく、“駄目” を意味しない。✖ には悪い意味は無く、彼、彼女らにとってそれは大抵、✔ とまったく同様にニュートラルなチェック・マークとして機能する。恋人に宛てた手紙の最後に ✖ を二つ三つ描けばキス・マークになり、これは通常のチェック・マークのようにニュートラルではないが、もちろん悪い意味を持つ訳ではない。言うまでもないことだが、 “あんたなんか嫌い!” という意味ではない。‥‥で、なんの話だったっけか? ‥‥
 何かを言おうとしたがそれができずに黙ってしまい、そこから束の間、沈黙の時間が流れる。“‥‥” は、ひとつにはその沈黙の時間を表わすために遣われる。なにも喋っていないのなら、なにも書かなくてよい、ということにはならないのだ。なにも書かずにおくと、発話が停滞したまま時間が経過している様子が伝わらない。無言の点々は、紡ぎ出されようとしてそうならなかった不運な言葉の墓碑銘なのである。
 そうなると、私が言う《無言の点々》にもっとも相応しいのは、幾つかの全角の中黒丸(・・・)だということにもなりかねないが、これだと間延びした見た目になるし、必要以上に強い主張に感じられてしまう。そこで、ワープロ用の文字コードを割り当てられた記号の中から中黒丸に代わるものを探した結果が “ ‥‥ ” だったのである。一般的な三点セット記号 (…)を一発、または二連打(……)という書き方は、欧文だとしっくりくるのかも知れない(同じフォントサイズだと大抵、和文の一文字よりもアルファベット一文字の方が巾が狭いのだから)。因みに、むろんこれもまったくどうでもいいことだが、角川文庫の『細雪』(これもたまたま持っていただけだ。深い意味は無い)では《三点セット》三連打、点が3×3で九つも打たれていて(………)、これはもう私には明らかに多すぎる(細かすぎる)――どうでもいいことだが。中味を書いた谷崎先生もきっと、點の數などほんたうにどうでもいいことだ、と(生きておられれば)仰るに違いない。だからこれはどうでもいいことだ。実のある小説を書くために、こんなことに拘泥する必要は全然ない。

§ 角川文庫で思い出した。――以前、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を角川文庫(上・下二巻)で読んでいて、ヒドく吃驚したことがあった。この作品はそもそもヒドく吃驚する内容のものなのだが(“昭和の奇書” の一つとされている)、いま思い出したのは、この小説のとんでもない内容に関することでは(おそらく)ない。これの下巻の或る箇所の或る記述がなんとも物凄いのである(繰り返すが、問題にしたいのは内容の物凄さではない――たしかにこの箇所も、内容も物凄いけれども)。私の手許にある『ドグラ・マグラ(下)』は、平成十九年の第61版である(昭和五十一年にこれの初版を出した角川文庫だけで、しかも十数年前の時点で、61という版数を稼いでいる。昭和十年の発表以来、種々の版において九十年近く売れ続けてきている大ベストセラーだ)。
 この角川文庫の235頁10行目のちょうど行頭から始まる一文を引用するので、私が太字で強調した部分をよく見てほしい(勝手に太字にさせてもらったが、それ以外は原文に忠実に書き写したつもりだ)。

 この上はその美しい愛人を、極度に残忍

 な方法で虐待するかどうかしなければ、
 この上の感激は求められられられられ
 いといった程度にまで高潮した欲求を、
 夜ごと日ごとに感じ始めて来た。

 この一文は、登場人物の一人、《正木博士》が《私》を相手に語る長い科白(235頁2行目~同頁最終18行目)の真ん中辺りに現われる。この《正木博士》というのは、とてもではないが普通の、まともな人間であるなどとは言えないキャラクターだから、どんな無茶苦茶なことを口にしてもおかしくはない。ただし、それは発言の内容の話だ。『ドグラ・マグラ』というこの作品がどれほど異様な内容を湛えているとしても、そのことから、“られ” が立て続けに四度繰り返されるということが必然的に出てくる訳ではない(この作品には、例えば正木博士は興奮すると吃音になるというような設定は埋め込まれていない――筈だ)。引用文中では「この上」という表現が二度用いられており(最初の「この上」は、“こうなったらもう” といった意味で、二度目のは “これを上回る” というような意味)、この箇所を書いているとき夢野は、言葉の繰り返しによって或る種のノリを産み出そうと意図していたのかも知れないが、「られられられられ」がそうした目的に適っているとも思えない。これを見た者はただただ驚いて驚いて、戸惑う戸惑う戸惑うしかないないないない――ばあ。‥‥。
 誤解の無いように言割っておくが、これは誤植ではない。つまり、角川書店がいい加減な本の作り方をしたからこうなった訳ではないのだ。――かつて知人にこのられられが一回だけになっている版は無い、ということだった。テクスト・クリティークに最も信頼がおけると考えられる版においても、長谷川町子『サザヱさん』のフキダシの中に頻繁に登場していたあの、平仮名の “く” を縦に引き伸ばしたような記号によって、られは繰り返されていたのである。つまり、著者=夢野久作本人が執筆に際して、何故か当該箇所でられを不必要に繰り返した可能性が高い——いや、まぁ、なんというか、この主著の執筆に十年を費やした偉大なる夢野久作である、不必要などとは不遜きわまりない、‥‥が、しかし、とにかく、その可能性を考えてみたくなる私を赦してほしい。私は不必要は好きだ。
 著者本人は、繰り返しは一度、すなわち、られは二回(「求められられ」)で止めるつもりであった(最初のられは《受動》、二回目のそれは《可能》で、“求めるという行為の対象となることができ〔ない〕” といった内容のことを言うつもりだった?)にも拘わらず、つい筆が辷ってられが四回になってしまった(一つだけ書けばよかった筈の繰り返し記号を立て続けに三つ書いてしまった)——ということなのだろうか? ――解釈として非常に苦しい! ‥‥それともやはり、夢野はけして書き損じた訳ではなかったが、ただ、彼と植字工ないし校正者との間で、夢野が書いた記号(縦長の)の扱いに関してズレがあった(具体的にどういうズレであったか、上手く想像することはできないが、夢野が一度だけ繰り返すつもりで書いた何らかの記号を、植字工ないし校正者が三度の繰り返しと受け取ってしまった)のか?
 ‥‥夢野は繰り返しをまったく意図していなかったという方向でのアプローチとして、次のようなのはどうか(ただしこれもかなり現実味が無い) ――夢野は、「求められ」と書いたところで続きをどうしたらいいのか迷い、「う~ん」とかなんとかと唸りながら、原稿にジグザグの線を引いた、そして、それをうっかりそのまま完成原稿として校正に送ってしまった。‥‥やっぱりこりゃ駄目だ。無ぅ茶苦茶でござりまする(ところで、ひょっとして夢野久作は、比喩ではなしに本当に筆を走らせていた——ペンや鉛筆で原稿を書いていたのではなく——のだろうか? 若い頃〔渋沢栄一に匹敵するほどの超大物だった〕父親のコネで、新聞社でライターをやっていたというから、筆ということはないだろうけれど)。
 ‥‥『ドグラ・マグラ』をいま一度よぉく読み返せば、正木博士が吃音になることが納得できるような記述が見付かるのだろうか? そうかも知れないし、そうなればそれがいちばんいいのだが‥‥。いずれにせよ、四つの “られ” は謎のままである。

 ‥‥始めのほうで書いたように私という人間は、必要なことは考えないように出来ている。大切なこと、大事なこと、と言ってもいいが、とにかくそういうことは考えない。というか、考えられない。頭がさう云ふふうに出來てゐない。だから、ここに延々と書いていることの中にも、なにかのために必要なことは一つも含まれていない筈だ。ここに私が書いたこと、将来的に書いてゆくだろうことは、簡単に言って、なんの役にも立たない。また、故に下らない。――もちろん、必要だとか大切だとか役に立つとかは、人それぞれだ。だから、いま言ったのとは真反対に、私がここに極めて重大な事柄ばかりを書いていると感じ、私のことを、イエスや聖徳太子やアインシュタインやガンジーやヘレン・ケラーのような偉人、賢者だと崇める人も、広い世間には一人や二人、居ないともかぎらない(世間というのはとにかく広いのだ)。しかしそういう人(映画【タクシードライバー】に登場する、デコトラじみたビカビカの電飾を施したクロゼットの中の神殿に自分だけの神を祀っている男のような?)に対して私自身としては、その理解は絶対に間違っていて、とんでもない錯覚だと言うしかないのだけれども、どうか落胆しないでほしい。それからついでに言うと、もう充分にお分かりのことと思うが、私の書き連ねることには脈絡が無い。‥‥‥‥
 点がちょっと多かったが赦してほしい。九つではなく八つで、これはこれなりに私にとってはそれなりの意味があってやっている。トコトンどうでもいいことだが。
 因みに、と言いながら何がどうチナんでいるか自分でもよく分からないが、『ドグラ・マグラ』は「蜜蜂の唸るような音」から始まる——下に角川文庫から引用する(強烈な「巻頭歌」の後、頁を改めての本文第1行目)。

  …………ブウウ      
  ンンン      ンンンン
  ………………。


(引用に際して改行したが)この1行をもって物語は幕を開ける。私の手許にある角川文庫では、最初の点々は12箇(全角4字分)、後のは18箇(全角6字分)、ダッシュは二つとも全角6字分になっている。こうした箇数や長さを著者が厳密を期しつつ指定したかどうかは分からないが、とにかく、如何にも『ドグラ・マグラ』、如何にも夢野久作ではないか。

§ 閑話休題(今更なにを思い出したように⁈)。
 さっき私の頭を通り過ぎていったのは、《数学》というものについての或る(もちろん下らない)考えだった。
 私は数学が苦手で、小学校で教わった算数よりも高度な内容のものは、どれもこれもきちんと理解できない。――こう書くと、算数はかろうじて得意だったと言っているように聞こえるかも知れないが、そうではない。とにかくずっと成績は悪かった。
 出来ないし解らないのであるいじょう、私は数学が大嫌いだ、となる筈だが、じつはそうではない。どうしてか。――高度になればなるほど数学は、たちまちの役には立たないから、つまり、現実の生活や、ましてや人生にとって必要ではないからだ。ものの本によれば、クレジット・カード決済などに際しては、個人情報のハッキングを防ぐ暗号システムが機能していることが絶対的に必要で、このシステムの構築には比較的高度な(特に《素数》という特殊な数に関連した)数学が応用されている。現代の現実の生活にとって高等数学は必要不可欠だという訳で、実際そのとおりなのだが、私はこういう実際的な話にはほとんど関心が無い。
 現実生活への応用ということから離れた、例えば《素数》の数学的な性質の解明といったものは面白いと思う。いかにも純粋に学問的で、さしあたり何の役にも立ちそうにないからだ。数学関係の一般向けの教養書は、数学というものが如何に我々の現実の生活に役立っているか、如何に現実生活に必要なのか、実例を示して読者の気を引こうとするが――これがインチキだというのではなく、実際に数学は大いに現実生活の役に立っているのであるが――こうした工夫は私は気に入らない。私にとっては余計なものだし、必要ない。
  “ちょっと待て。お前、いま、教養書の著者の工夫を必要ないってコケにしたな? だがお前――まさに他ならぬ、必要のないものを悦ぶお前こそは、教養書のそういう工夫を『気に入らない』なんて言っちゃいけないんじゃないか?” ——なんて言っちゃいけない。それは詭弁というものだ。
 詭弁というのは、詭弁であることが見破られてしまうと、相手を騙せないという意味で、役に立たないものへと成り下がる。で、役に立たないものが私は好きだ、ということからすると、私は見え透いた詭弁というのが好きだ、ということになりそうだ。で、そうすると、私が人の意見を “詭弁” だと言って非難するのは、‥‥おかしいのかしら? ――いやいや、あんまり見え透いていすぎると詭弁は面白くない。そこそこに手の込んだ、ちゃんと人を騙せる、つまり或る程度役に立つ詭弁の方が‥‥
 ‥‥何の話をしているのか分からなくなってきた、遺憾遺憾。いま書かなきゃいけないのは、えーと、‥‥とにかく私は、いま、ここに書く必要のあることだけを‥‥必要? 私は〈必要〉は嫌いなのではなかったかしら? ‥‥駄目だ駄目だ。こんな余計なことばかり考えていると、「さっき頭を通り過ぎていった」考えをすっかり忘れてしまう。――いやいや! こういう悩み方は遺憾。私らしくない――さっき(といっても、もう随分以前のことのような気もするが)私の頭を通り過ぎていったあれはそもそも、憶えておく必要など全然ない、どうでもいいことだったのだから。気楽に構えてゆこう。気楽に構えて、いま頭に残っていることだけをじっくり――あぁいやいや、こんな暇潰しに寸暇を惜しんで没頭していると、いつまで経っても小説が書けない。肝心なのはなんといっても、 ‥‥肝心? ‥‥

 疲れたから已める。
次回は数学の本質について  って、俺がそんなワケないだろ。

             Opus-01: